展示資料一覧
1. 延享元年(1744)八月九日八戸藩日記 (デジタル光筆画複製資料)
昌益が遠野南部家から来た流鏑馬の射手を治療したという八戸藩日記の記事。この記事により、昌益が八戸城下で町医者をしていたことが判明した。
延享1年8月9日条には、「射手就病気、御町医安藤昌益去ル六日より療治申付」、つまり、「流鏑馬の射手が病気になったので、町医者安藤昌益に去る6日より治療を命じた」とある。
2.延享元年八月十五日八戸藩日記 (デジタル光筆画複製資料・パネル)
昌益が治療の薬礼を辞退したという八戸藩日記の記事。
延享1年(1744)8月15日条に「八戸弾正殿役者三人、先頃病気ニ而御町医安藤正益療治申付、快気仕候付為薬礼金百疋正益江差出候処、上より被仰付候儀故受納不仕由、御奉行申出」、つまり「遠野南部家の射手三人が病気になり、町医者安藤昌益に治療を命じたところ快気したので、薬礼として金百疋(銭千文)を差し出した。ところが昌益は、『お上から命じられたことなので、受け取ることができない』とした」とある。
3.延享二年2月29日八戸藩日記 (デジタル光筆画複製資料)
昌益が家老の治療をしたという八戸藩日記の記事。医者としての力量が高かったことがうかがわれる。
延享2年(1745)2月29日条には、「先頃右医師中并内田祐怡(うちだゆうたい)御町医安藤昌益相談之上薬相用、四五日以来少々快方御座候得者」、つまり、「永く病気を患っていた家老中里清右衛門が安藤昌益と相談して薬を処方してもらったところ、四~五日で快方に向かった」とある。
4.宝暦八年七月二十七日八戸藩日記 (デジタル光筆画複製資料)
昌益の息子とみられる秀伯(周伯)が父に代わって治療をしたという八戸藩日記の記事。この頃、昌益は八戸にはおらず、大館に立ち去ったのであろう。
宝暦8年(1758)7月27日条によると、「御町医安藤秀伯薬用仕一通順快御座候処」、つまり、「北田市右衛門が瀉(嘔吐)を煩い、持病の痞(つかえ)も出てきたので、町医者の安藤秀伯が薬を処方したところ、一通り順快した」とある。
5.宝暦十三年二月二十九日八戸藩日記 (デジタル光筆画複製資料)
周伯が、母と連れ立って上方へ医学修行に出かけたいという願書を出している八戸藩日記の記事。
宝暦13年(1763)2月29日条によれば、「御町医安藤周伯母召連上方江罷登候節所々通証文被成下度趣願出」 との表記があり、町医者の安藤周伯が、母同伴で上方に行くための通行証文を願い出ている。
6.宝暦十三年三月一日八戸藩日記 (デジタル光筆画複製資料)
宝暦13年(1763)3月1日の藩日記には、「御町医安藤周伯勤学上京之儀可為勝手次第旨被仰付之随而母招連候付所々通り御証文願出可被成下旨御町奉公江被仰付」との表記があり、町医者安藤周伯の医学修行の上京が許可され、母同伴の通行証文が交付されたことが分かる。
7.延享3年(1746)宗門改帳 (デジタル光筆画複製資料)
八戸城下に昌益が家族とともに住んでいたことを示す宗旨調査の宗門改帳。八戸十三日町の項に『同宗同寺 同組 昌益 四十四 有人 〆五人 内男二人女三人』と記されている。当時44歳であった昌益は願栄寺の檀家として十三日町に居住し、男2人女3人の5人家族であった。
8.転真敬会祭文 (デジタル光筆画複製資料)
昌益思想を記述した祭文(本来は、祭りの際に神に捧げる祝詞という意味)に、門弟たちが説明を付け加えた文書。昌益の門弟たちは昌益思想を伝えることを目的に転真敬会という集まりを開き、思想の共有をはかっていた。
9.暦之大意3冊 (デジタル光筆画複製資料)
暦学のあらましを紹介しながら、昌益が意見を述べている著作。昌益の呼び名である「安氏正信」が記述したものを、一番弟子である神山仙確が書き写したもので、自序に延享2年と年代が記されている。著作としては、昌益思想が形成される以前の初期の作である。
神山仙確の本名は「仙庵」といい、藩の側医であった。
10.博聞抜粋3冊 (デジタル光筆画複製資料)
昌益が勉強のために古典や古書などから必要事項を写した読書ノート。所々に『正信云ふ』として昌益が意見を述べているが、昌益思想形成以前の初期の著作である。書写が誰なのかは不明。